この街の夜が、僕の本当の時間だ。
僕の名前は銀次。この商店街の裏路地をテリトリーにしている、いわゆる「地域猫」ってやつさ。耳の先を少しだけカットしているのは、この街の人間たちと交わした、平和条約の証みたいなもの。
今夜も、いつものコインパーキングの角にある、古ぼけた木のベンチに座っている。ここからは、家路を急ぐ人間たちの足音がよく聞こえるんだ。
人間っていうのは、不思議な生き物だよね。みんな同じような顔をして、スマホという光る板を見つめながら、せかせかと歩いている。でも、僕にはわかるんだ。彼らが今日、どんな一日を過ごしてきたのかが。
重い足取りで歩くスーツの男の人は、きっと仕事で少しだけ失敗しちゃったんだろう。彼のポケットからは、微かに焦ったような、苦い匂いがする。 反対に、軽やかなステップで鼻歌を歌う女の子からは、焼きたてのパンのような、甘くて幸せな匂いがする。
「おや、銀次。今夜もそこにいたのかい」
声をかけてきたのは、いつもの「おばさん」だ。彼女はこの街で、僕らのような身寄りのない猫たちの面倒を見てくれている。彼女が差し出してくれるアルミ皿には、栄養たっぷりのごはん。これが、僕らの一日を締めくくる最高のご馳走なんだ。
おばさんと僕の間には、言葉なんていらない。彼女が僕の背中を撫でる手のひらの温度、そして僕が喉を鳴らす「ゴロゴロ」という音。それだけで、十分な会話が成立している。
「明日も冷えるみたいだから、温かい場所で眠るんだよ」
彼女はそう言い残して、街灯の下へと消えていった。
僕は食後の毛繕いをしながら、ふと思う。 人間たちは僕を見て「自由でいいわね」なんて言うけれど、僕らにとっての自由は、それなりの覚悟が必要なんだ。夏の焼けるようなアスファルト、冬の凍えるような北風。それでも、この街で生きていくと決めた。
なぜかって? それは、時々、あのおばさんや、あの疲れたスーツの男の人が、僕の姿を見て、ほんの少しだけ口元を緩めるのを知っているから。 僕がここで静かに座っていることが、誰かの心の止まり木になっているのなら、路地裏の用心棒代としては、悪くない報酬だと思うんだ。
月が一番高いところまで昇った。 さて、今夜のパトロールを始めようか。 明日の朝、また誰かが僕を見つけて、「おはよう」と微笑んでくれるために。
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