俺の名前は斉藤雅彦、四十七歳。どこにでもいる平凡な中年サラリーマンだ。営業部に配属されて二十年以上経つが、昇進どころか後輩の方が先に出世していく。家に帰っても一人、テレビをぼんやり眺め、缶ビールで気を紛らわすだけ。気がつけば「うだつが上がらない」という言葉が、自分の人生をそのまま表しているようで胸に刺さっていた。
そんなある日、書店で手に取った自己啓発本に、何気ない一文が書いてあった。
――「毎朝鏡の前で笑顔をつくり、自分に『今日もいい日になる』と言い聞かせる」――。
馬鹿げていると思った。だが、どうせ俺の毎日は冴えない。ならば試してみても損はないだろうと、次の日から実行してみた。
鏡の前で口角を上げ、ぎこちない笑顔を浮かべる。最初は滑稽だったが、一週間、二週間と続けるうちに、不思議と心が軽くなっていった。そして会社でも「最近、表情が柔らかくなりましたね」と言われ、取引先との会話もスムーズに進むようになった。
――だが、運命の出会いは、もっと思いもよらぬ形で訪れた。
ある金曜日の夜、同僚に誘われて立ち寄った小さなバー。そこで彼女はカウンターに座っていた。長い黒髪を肩に流し、ワインをゆっくり口に運ぶ姿は絵画のように艶やかだった。
「ここ、空いてますか?」
勇気を出して声をかけたのは、毎朝の鏡の習慣で、自分に少しだけ自信が芽生えていたからだ。
彼女の名前は玲子。三十八歳、広告関係の仕事をしているという。大人の女性らしい落ち着きと、官能的な色香を纏っていた。話をしていると不思議と時間を忘れ、気がつけば終電を逃していた。
その夜から、俺の世界は一変した。
週末には彼女と映画を観に行き、レストランで食事を楽しむ。肩越しに見せる微笑み、グラスを傾ける指先――どれもが男を惑わす魔法のようだった。
ある晩、彼女の部屋に招かれた。落ち着いた照明の下、香水の甘い香りが漂い、ソファに並んで座るだけで心臓が高鳴る。
「雅彦さん、最初に会ったときから…あなたの笑顔が印象的だったの」
そう言って玲子が身を寄せてきた。温かい吐息が耳に触れ、身体の奥が震える。彼女の唇が触れた瞬間、俺の中で長年眠っていた情熱が一気に溢れ出した。
互いの体温を確かめ合い、重なるたびに、冴えない自分がどんどん剥がれ落ちていくようだった。中年男の俺が、官能的な美人に求められている――その事実が夢のようで、同時に生きる自信を与えてくれた。
「ねぇ、これからも笑っていてね。その笑顔に惹かれたんだから」
玲子の囁きに、胸が熱くなる。
思えば、たった一つの小さな習慣が、俺の人生を変えた。鏡の前で笑う――それだけのことが、出会いを引き寄せ、恋を呼び込み、そして今、俺に最愛の人を与えてくれたのだ。
人はいつからでも変われる。そう信じさせてくれたのは、彼女の瞳と、毎朝のあの笑顔だった。
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