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揺れる心、許されない夜

 


「こんなこと、してはいけないってわかってるのに……。」  

私は小さな声で自分に言い聞かせながら、玄関の鍵を静かに閉めた。夫が出張で不在の夜。空っぽの家に一人でいる寂しさが、私の心を蝕んでいたのかもしれない。


「来ちゃったね。」  

リビングのソファに座っていた彼、直人がそう言って微笑んだ。その笑顔は、いつも仕事場で見せる誠実な上司の顔とはまるで違っていた。  


「……直人さん、帰ってください。」  

私の声は震えていた。でも、その震えが彼を引き止める力にはならなかった。


「帰れるわけないだろう。君が誘ったんだよ?」  

彼の声は低く、心の奥底に触れるような響きだった。確かに、私は直人をここに誘った。自分でも理由がわからない。理性を失った私は、彼にメッセージを送ったのだ。


「冗談だったんです。私、夫が――」  

「もういいよ、そんな言い訳。」  

直人は私の手を取り、自分の隣に引き寄せた。その瞬間、私の心にあった薄い壁が音を立てて崩れていくのがわかった。



雨が窓を叩きつける音だけが、静まり返った部屋に響いていた。  

「冷たい手だね。少し緊張してる?」  

彼の指が私の頬を撫でる。熱を帯びたその手に触れられるたび、罪悪感が私を押しつぶそうとする。それでも、体は逃げられなかった。  


「ねえ、本当はどう思ってる?」  

直人の問いに、私はうつむいたまま答えられないでいた。愛しているのか、ただの一時的な感情なのか、自分でもわからなかった。


「……私は――。」  

言葉が喉に詰まり、涙がこぼれ落ちる。直人はその涙を指先で拭いながら、そっと耳元で囁いた。  

「誰も責めたりしないよ。ただ、君がどうしたいのか、それだけが知りたい。」


その瞬間、私の中の何かが弾けたような気がした。夫に対する罪悪感、そして直人への秘めた感情――すべてが入り混じり、何もかもがぐちゃぐちゃだった。



夜が明ける頃、直人は静かに部屋を出て行った。何も言わず、ただ一瞬だけ振り返って微笑んだその表情が、私の胸に深く刻まれた。  


リビングに取り残された私は、虚ろな目で空を見つめながら、心の中で夫に謝り続けていた。  


「どうしてこんなことになったの……。」  

呟いた言葉は誰にも届かない。だけど、今の私にはそれでよかった。揺れる心を抱えたまま、私はまた日常に戻るしかなかったのだから。



その後の日々は、まるで霧の中を彷徨っているようだった。夫が出張から帰ってきても、私はどこか上の空だった。  

「最近、元気がないな。何かあったのか?」  

夕食を囲む食卓で、夫が優しく問いかけてきた。いつもの温かい声なのに、その声が私には棘のように刺さった。  


「ううん、何でもない。ただ少し疲れてるだけ。」  

笑顔を作ろうとしたけれど、きっと不自然だったに違いない。それでも夫は深く追及せず、そっと話題を変えた。その優しさが逆に私を苦しめる。



仕事場では直人の姿を見るたびに心が乱された。彼は何事もなかったかのように、冷静に仕事をこなしている。私に対して特別な態度を取ることもなければ、気まずそうにすることもない。それが、逆に私を孤独にさせた。


ランチの時間、彼が私の隣に座ってきた。周りに同僚がいるから、二人きりではない。それでも、彼の存在だけが私の全意識を奪っていく。  


「昨日の資料、ありがとう。助かったよ。」  

何気ない仕事の会話。だけど、その声に隠された深い響きが私の心を揺さぶった。  


「いえ、いつもお世話になってますから。」  

震えそうになる声を押し殺し、普通を装った。それ以上、何も言えなかった。彼もそれ以上は何も言わなかった。


ある日、直人から突然メッセージが届いた。  

「今夜、少しだけ話せないか?」  


心臓が大きく跳ねる。既読をつけたまましばらく動けなかったが、結局返信してしまった。  

「わかりました。」  



夜。待ち合わせ場所は会社から少し離れた静かなカフェだった。私はぎこちない足取りで店に入り、すでに席についていた彼を見つけた。  


「来てくれてありがとう。」  

直人はいつもの穏やかな表情で、私を迎えた。  


「直人さん、もうやめましょう。これ以上……。」  

席につくなり、私は切り出した。心がざわざわして仕方がなかった。  


「君がそう言うなら、それでいい。でも、その前にこれだけは聞きたい。」  

彼の目は真剣だった。  


「本当に何も感じなかったのか?」  


その問いに、私は言葉を失った。感じなかったわけではない。むしろ、あの夜の彼の温もりや言葉は、今でも鮮明に胸の奥に残っている。だけど、それを認めてしまえば、もっと深い罪に落ちる気がして――。  


「……感じなかった。」  

私は嘘をついた。その言葉を口にした瞬間、彼の目が悲しそうに揺れた。


「そうか。」  

直人はそれ以上何も言わず、コーヒーを一口飲んだ。そして、小さな声でつぶやくように言った。  


「君がそう決めたなら、それが正しいんだろう。でも、僕は……君を忘れられないと思う。」  



その夜、家に帰ると、夫がリビングでテレビを見ていた。  

「おかえり、遅かったな。」  

いつもの夫の声。それが今は少しだけ重く聞こえた。  


「うん、ちょっと残業で。」  

私はそれ以上話す気になれず、すぐに寝室に向かった。



布団の中で、一人涙を流した。直人の言葉が、夫の優しさが、私の心を締めつける。私は誰も傷つけたくない。だけど、すでに誰かを傷つけてしまったのかもしれない。  


「どうしたらよかったんだろう……。」  

その問いの答えは、まだ見つからない。  


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