「……ねぇ、本当に我慢できるの?」
気づけば、その言葉が口をついていた。
自分でも驚くほど、声が震えていた。
定時を過ぎたオフィス。蛍光灯の半分が落ち、あなたの席だけがぽつんと明るい。私は今日も残業のふりをしながら、あなたの帰り際を待ってしまっていた。中年の女が何をしているのか……そう思うのに、足は勝手にあなたの方へ向いてしまう。
「部長こそ、我慢できてないんじゃないですか?」
軽く笑いながら、あなたは私の目を覗き込んだ。
その距離が近すぎて、胸が苦しくなる。
「ちょっと……からかわないで。そういうの、本当に弱いんだから」
「弱いの、知ってますよ」
その言い方が余裕たっぷりで、私は思わず視線をそらした。
こんなの、若い頃にはなかった反応だ。年を重ねるほど、素直になれないくせに、心が揺れやすくなるなんて。
「今日は帰るんじゃなかったの?」
「帰ろうとしたら、部長が声かけるから」
「かけてないわよ」
「心の声が聞こえました」
「……もう、ほんとに」
思わず笑ってしまった。
あなたといると、どうしてこんなにも胸がざわつくんだろう。
「ねぇ、あのさ」
私は机に手を置いて、あなたに向き直った。
「こうやって二人で残ってると、良くないこと考えちゃうのよ。年齢とか立場とか、そんなもの全部どうでもよくなりそうで……怖いの」
「良くないことって、どんな?」
「……あなたの口から言わせる気?」
あなたは椅子から立ち上がり、ゆっくり近づいてきた。
蛍光灯の薄い光が、あなたの横顔を柔らかく縁取る。
「じゃあ聞きますけど」
「な、なに?」
「部長は……我慢したいんですか?」
胸の奥がズキンと鳴った。
「……したくても、できないのよ。あなたの前だと」
素直になった途端、あなたの顔がふっと緩んだ。
「なら、僕も無理ですね」
「ちょっと……そんな簡単に言わないでよ」
「簡単じゃないですよ。でも、隠せません」
静かなオフィスで、鼓動の音がやけに大きい。
あなたの視線が触れるだけで、肩が熱くなる。
「ねぇ……私たち、本当にどうなるのかしら」
「それ、部長が言い出したんですよ?」
「そうだけど……あなたも、考えてるんでしょ?」
あなたは少しだけ息を吸って、表情を和らげる。
「こうなる気がしてたんです。最初から」
「最初から?」
「部長が僕を見る目、ずっと同じじゃなかったから」
「……そんなの、気づいてたの?」
「気づかないわけないでしょう」
私の手に、あなたの指先がそっと触れた。
その程度の接触なのに、全身が熱を帯びる。
「ねぇ、私……」
言葉の続きが喉でほどけた。
あなたがほんの少し微笑んだから。
「部長こそ。我慢できるんですか?」
「……できるわけ、ないでしょ」
その答えを聞いたあなたは、まるで待っていたと言わんばかりに、そっと私の名を呼んだ。
止める気なんて、もう最初からなかった。
離れようとしても、心があなたを追いかけてしまう。
そして私は悟った。
――我慢なんて、最初からできるはずがなかったのだと。
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