新しい春の風がオフィスに届き始めた頃、俺の目は無意識に彼女を追うようになっていた。
彼女――篠原さんは、既婚者だ。それは彼女の左手薬指に輝く指輪が物語っている。最初にそれに気づいた瞬間の胸のざわめきを、俺は一生忘れないだろう。なぜだろうか。出会ってまだ半年も経っていないのに、彼女は俺の中で特別な存在になっていた。
朝、彼女がデスクに座って書類に視線を落としている姿。午後、コーヒーを片手に同僚と談笑する柔らかな笑顔。そして夕方、窓際に立って遠くを見つめるほんの少し疲れた横顔。その全てが、俺を取り囲む世界を色づけている気がした。彼女は自分の魅力に気づいているのだろうか?いや、気づいているが、それをさりげなく隠しているようにも見える。その奥ゆかしさがまた、俺を魅了してしまうのだ。
けれど、彼女が既婚者だという事実が時々刃のように俺の胸を刺した。彼女が家庭でどんな表情を見せているのか、どんな言葉を紡いでいるのか。帰り道、スーパーで買い物をしているのか、それとも子供がいるなら一緒に宿題を見てやるのだろうか。考えれば考えるほど羨ましくて、悔しくて、それでもそれを彼女にぶつけることなど許されないのだと自分を戒めていた。
一方で、ふとした瞬間に彼女の目が何かを訴えるように俺を見るときがある。その瞬間は短いけれど、時が静止するような感覚に囚われる。彼女の心の奥底にわずかでも、不満や孤独が宿っているのだろうかと考えると、俺の中に抑えがたい感情が湧き起こる。「もっと近づきたい」と。本当の彼女を知りたいという欲望に、俺はいつも揺さぶられた。
ある日、仕事が終わった後、ふとしたきっかけで二人きりで話す機会が訪れた。彼女がふいに言った。「時々、私、何のために結婚したのか分からなくなるときがあるんです」その言葉に胸が締め付けられた。俺は驚きと共に、どう答えればいいのか分からずただ彼女の顔を見つめていた。彼女の目は静かに泣きそうなほど寂しげで、それでもその奥に揺らぎを隠していた。
「篠原さん、俺……」気づけば俺は口を開いていた。しかしその先の言葉が続かない。踏み込むべきではない場所だという理性と、それを押しのけようとする衝動が俺の中で戦っていた。彼女は俺の言葉を待つようだったが、やがて静かに微笑んだ。「ありがとう、でも言わないで。この微笑みながら彼女がそう言った瞬間、俺の中で何かが崩れ落ちる音がした。
彼女の優しさが、それ以上踏み込むなと暗に告げているのを感じたのだ。だが、その微笑みの奥に隠された寂しさや孤独が、俺の心をさらに乱した。何も言わずにうなずくことしかできなかった俺を見て、彼女はカバンを持ちながら「お先に失礼します」と静かに立ち去った。
窓の外に消えていく彼女の後ろ姿が目に焼きついたまま、俺は席に戻れなかった。胸は苦闘と失望で軋み、彼女に触れることも、救うこともできない無力さに打ちのめされた。それでも、彼女の残した微かな香りさえ愛おしいと思う自分がいた。
既婚者である彼女を愛するという現実。それがどれほど罪深く、叶わぬものなのかを分かっている。それでも、この気持ちは簡単には消えない。篠原さんの笑顔、その瞳、その声。俺にとってそれは、生きる理由その物なのに、なぜまだこんな愚かな幻想を抱えてしまうのだろう。
彼女が帰った後も、俺はオフィスの窓際に立ち尽くしていた。夜風が微かに頬を撫で、街の明かりがぼんやりと滲む。篠原さんは今頃、家庭という場所に帰っているのだろう。温かい食卓、彼女を愛する誰かの笑顔。そう考えると、胸の底からねじれるような痛みに襲われる。それでも俺は、彼女にその全てを壊してほしいとは思えなかった。彼女を好きでいながら、同時に彼女の幸せを願うという矛盾。その矛盾が、俺をさらに深い泥沼へと引きずり込んでいく。
「お元気ですか?」とスマホを手に取りかけてすぐ、ため息とともに手を下ろす。送る理由も資格も俺にはない。ただの同僚、それ以上になんて、なれないのだから。でも……この手のひらに触れる感触だけでも、彼女の声を耳にするだけでも、俺はどれほど救われているのだろう
恋愛マンガは、主に恋愛をテーマにした漫画作品で、登場人物たちの感情や関係性の変化を描いています。
https://www.amazon.co.jp/shop/influencer-316d999d/list/3319N66FHBA4E
コメント
コメントを投稿